人権の街『芦原橋』
こんにちは!秀吉ヤングです。
みなさんはここ大阪に西日本最大級の部◯があったことはご存知でしょうか?
現在では知らない方のほうが多いのではないでしょうか。
なぜなら、人権の街として様々な人権問題に対しての活動拠点だった「芦原橋」が現在はゴーストタウン化しており、表立った活動があまり認知されていなからではないでしょうか。
そこで、今回は人権の街「芦原橋」周辺を探索して皆さんにご紹介していきたいと思います。
芦原橋とは
まず初めに、芦原橋とは、大阪市浪速区にある「JR芦原橋駅」周辺の地域を指します。
この芦原橋駅周辺は、江戸時代頃から動物の皮を剥いで加工する皮革業に従事する「穢多」と呼ばれる身分の人たちが多く住んでいて「渡辺村」と呼ばれる集落が形成されました。
「穢多」と呼ばれる身分の人たちは重要な産業の一つであった皮革産業をになっていましたが、当時は動物の死体を処理して加工するという仕事には「穢れ」があるとして、その仕事をする人たちは差別されていました。
そして、現在でもその名残である革製品のお店や太鼓屋がこの地域一帯に多く存在します。
また、ここにかつて住んでいた多くの人が差別されていたという歴史から、同和問題や人権問題に関する団体の拠点としても使われていました。
その歴史を知るためにも今回は芦原橋周辺を散策してみました。
JR芦原橋駅
芦原橋周辺を散策するにあたってはじめに「JR芦原橋駅」から見ていきたいと思います。
芦原橋駅は、環状線内中で発着本数が一番少なく、乗車人数も2番目に少ない少し寂しいこじんまりとした駅です。
改札は北改札と西改札の2つがあります。
北口改札を出ると道路は挟んで正面左側には大きな太鼓屋さんが見えます。
すぐに革産業の街としての名残を確認することができます。
他にも、駅の周辺の電話ボックスとバス停も謎に太鼓の加工がされていて異常な太鼓推しを見ることができます。
ベンチまで太鼓にされてしまっています…笑
駅周辺
高架下を抜けて駅の南側を散策していきたいと思います。
こちら側は昼間はほとんどシャッターが閉まっていました。
提灯などがあるので夜は居酒屋などをやっているのでしょうか。
ぶらぶら歩いていると、見つけました、、、
「大阪市人権同和教育研究会」と書かれた看板発見。
やはり、人権の街「芦原橋」、このような人権団体が現在も活動していることを把握することができました。
映像鑑賞会「人間みな兄弟」(1960年)は正直かなり興味がそそられます。
その他は特に変わった様子もない普通の道でした。
しかし、みなさんもお気づきかもしれませんがかなり広大な土地がほぼ空き地になっています。
この辺は闇が深そうなので特に触れないで置こうと思います。
人権博物館
散策を続けていると大阪人権博物館「リバティおおさか」と書かれた看板がありました。
人権博物館は絶対に面白いに違いないと矢印の方向へ進んでいきます。
途中で迷いながらもグーグルマップを頼りに人権博物館の住所の場所に着きました。
「え?」
「嘘やろ???」
なんと人権博物館は完全になくなっていました。。。
調べてみると、大阪市の財政改革で補助金が廃止や、今まで無償だった土地代が有償化されるなどで色々あり、人権博物館は解体され更地にして大阪市に返還されたとのこと。
大阪市の言い分としては「ネガティブな展示が多いから」とのことだったが、個人的にはネガティブな歴史であろうとも現実問題として後世に残していくべきなのではと思うがそこは難しいところなのでしょうか。
人権・太鼓ロード
気を取り直して人権博物館跡周辺を歩いてみると太鼓を持った銅像が展示されていました。
この人権博物館前の通りは「人権・太鼓ロード」と呼ばれているそうです。
「和太鼓」から「エイサー(沖縄の太鼓)」「サムルノリ(朝鮮の太鼓)」と、かつて差別を受けていた人たちを太鼓を通して人権博物館の前に展示していたのではないかと思われます。
トベラ科の猫ちゃんも展示されていました。
浪速神社
人権博物館跡の北側には「浪速神社」があります。
パッと見た感じではごくごく普通の神社ですが、玉垣にはしっかりと「部◯解放同盟」の名前が刻まれています。
右が浪速支部、左は西成支部でした。
神社前の道路には「旧渡辺道」と書かれた石柱が建てられています。
この道はかつて旧渡辺村と大阪市内を繋ぐ唯一の道だったそうです。
太鼓屋又兵衛屋敷跡
浪速神社の東側には「太鼓屋又兵衛屋敷跡」の石柱を発見しました。
説明文を読むと太鼓屋又兵衛とは、江戸時代に渡辺村で活躍した太鼓職人で、皮革問屋として成功して大金持ちになった今で言う渡辺村というスラムから太鼓一本で成り上がった地元のHoodstar的な感じだと思います。知らんけど。。
屋敷跡には特に家が残されているわけでもなく、からくり時計がぽつんと佇んでいるだけでした。
定時になるとからくり人形が太鼓を鳴らす仕組みになっているみたいです。
西濱水平社発祥之地記念碑
さらに東へ進むと浪速東第3公園というほぼ何もない公園があります。
その公園の橋には「西濱水平社発祥之地」と書かれた記念碑が建てられています。
西濱水平社とは、「全国水平社」が京都で結成されたのち、 大阪でも水平社を結成しようということで作られた組織です。
簡単に説明すると「大阪の部◯差別をなくそう!」という活動をしていたみたいです。
この公園の他にも、芦原橋周辺には特に何もない公園が沢山あります。
土地が余りまくっているのでしょうか。
市民交流センターなにわ(旧浪速人権文化センター)
ぶらぶらと散策してJR芦原橋駅に戻ろうとしている途中になにやら大きめの廃墟を発見しました。
入り口看板は草で覆われていましたが、「大阪市立市民交流センターなにわ」と書かれています。
調べても全くと言っていいほど情報がなく、前は「浪速人権文化センター」だったということくらいしかわかりませんでした。
建物入り口には「浪速同◯地区老人センター」と書かれていたため、同◯事業の一環として建てられたのだと思われます。
中には入れないようになっていたため外から写真を撮りましたが、敷地内には水車小屋があったりなど、どういった施設だったのかが気になります。
その他街並み
芦原橋の代表的なところは全て回ったので後は、周辺の街並みを紹介して終わりたいと思います。
やはり、元々は西日本最大級の部◯であったことからフェンスで囲われた空き地が多く、その土地は大阪市が管理しているのだと思われます。
そのため、市営住宅が多く建てられています。
しかし、その割には周りに店が少なく、閑散とした町並みとなっているといった印象です。
人権掲示板は街の至る所に建てられています。
他には「工場アパート」などあまり見慣れない建物も存在していました。
今もやっているかはわかりませんが、1枚200円の激安すぎるお好み焼き屋さんもありました。
以上が芦原橋の街並みでした。
最後に
皆さんいかがだったでしょうか?
かつては西日本最大級の部◯であった場所であり、差別や人権問題に対する取り組みの拠点となった芦原橋周辺地域ですが、現在は治安も良く、市営住宅などが多く建てられているので多くの人が暮らしやすい街に今後もなっていくのではないかと思います。
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