三光神社・安居神社・心眼寺
こんにちは!秀吉ヤングです。
今回は、豊臣秀吉の家臣で、大河ドラマ「真田丸」で有名な真田幸村ゆかりの地である「三光神社」・「安居神社」・「心眼寺」についてみなさんに紹介します。
真田幸村は、歴史好きの人に大人気の戦国武将です。
しかし、歴史好きじゃない人からすれば、「名前は聞いたことあるけど、学校の教科書には出てこないしどんな人物かよくわからない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
そのような人のためにも、真田幸村について少し解説した上で、真田幸村ゆかりの地である神社について紹介していきたいと思います。
真田幸村とは【大阪冬の陣・夏の陣】
真田幸村とは、豊臣秀吉の家臣で本名が真田信繁という戦国時代に活躍した戦国武将です。
秀吉の死後、徳川家康が秀吉の息子の豊臣秀頼を含む豊臣家を滅ぼそうと「大阪冬の陣・夏の陣」が起きました。
この大阪の陣で豊臣家側として大活躍したのが、真田幸村です。
【大阪冬の陣】
豊臣家の味方は、関ヶ原の戦いで負けた真田幸村をはじめとする浪人を中心とした寄せ集めの約10万人の兵。
対する徳川幕府側は、約20万人といった2倍の兵力でした。
大阪城での籠城戦となり、真田幸村は、城内の出城としてあの有名な「真田丸」を築いて火縄銃を使用して徳川軍へ抵抗。
見事、徳川軍を撃退することになりました。
しかし、徳川軍の砲撃により抵抗を諦めて和平交渉を行うことになりました。
和平交渉の条件は、「大阪城の堀の埋め立て」「真田丸の破壊」と引き換えに、「淀殿、秀頼の身の安全」「所領安堵」「浪人衆の罪を問わない」とすることでした。
【大阪夏の陣】
大阪冬の陣の和平交渉で停戦状態であったが、徳川軍は豊臣軍が埋めさせた堀を再構築しようとしているという噂を聞き、再度豊臣軍に攻撃を仕掛けました。
豊臣軍は、約7万人。対する徳川軍は約16万人。
兵力の大差、また堀も埋め立てられて、豊臣軍は圧倒的不利な状況でした。
冬の陣での功績を評価された真田幸村は、徳川家康に「10万石をあげるから、徳川軍に寝返ってくれ」と頼まれます。幸村はこれを拒否します。
徳川家康は、「信濃一国をあげるから、徳川軍に寝返ってくれ 」と再度幸村に頼みます。
これに対して真田幸村は、「10万石ごときでは寝返らないが、信濃一国なら寝返るとでも思ったのか!」とブチ切れました。
幸村は豊臣側が圧倒的に不利で徳川軍に寝返った方が良いことはわかっていましたが、豊臣家の家臣として忠義を尽くし、死を覚悟して戦いに挑みました。
不利な状況下での戦いでしたが、真田幸村隊の猛攻は凄まじく徳川家康の本陣にまで突入して、徳川家康に2度も死を覚悟させたと言われていますが、あと一歩のところで数で有利な徳川軍に負けていしまいました。
その後、大阪城は陥落。
徳川軍の勝利でこの戦いは終わりました。
この大坂夏の陣での戦いや幸村の武士道精神から敵の武将にも高く評価され、「真田、日本一の兵(つわもの)」とまで呼ばれるようになりました。
真田幸村について理解が深まったところで、つぎに真田幸村ゆかりの地の紹介をしていきたいと思います。
三光神社【真田の抜け穴】
三光神社は、大阪の天王寺にある神社です。
この神社の周辺は、小高い丘となっており、かつて「真田丸」があった場所です。
また、「真田の抜け穴」があることで有名です。
西側には、日本で最初かつ最大の陸軍墓地である「真田山陸軍墓地」があります。
境内には、真田幸村ゆかりの地として、「真田石」という巨石の上に立つ真田幸村の銅像があります。
銅像の隣には、「真田の抜け穴」があります。
真田の抜け穴は、真田幸村が真田丸から大阪城まで行き来するための抜け穴として作ったとされています。
しかし、この抜け穴は徳川軍が攻める際に作った穴であるとか古墳の一部であるとか、難波秘密倶楽部へ続く地下通路など様々な説があります。
(個人的には、難波秘密倶楽部へ続く地下通路説が濃厚だと思います…)
抜け穴は、現在、鉄扉で封鎖されています。
鉄扉には、真田幸村の家紋である「六文銭」が描かれています。
また、年に一度の「真田まつり」の開催時にだけ中の見学が可能になります。
抜け穴の中は、正面の突き当りを左に曲がり約7メートルで行き止まりとなっているそうです。
安居神社【幸村戦死の地】
安居神社は、三光神社と同じく大阪の天王寺にある神社です。
安居天満宮とも呼ばれています。
大坂の陣で真田幸村が怪我を負いながら敗走している途中で、この安居神社で座りながら怪我の手当をしていたところを敵兵の西尾仁左衛門に見つかり討ち死にした場所としても有名です。
死の直前、西尾仁左衛門に対して幸村は「この首を手柄にされよ」と言ったとされています。
安居神社にも、三光神社と同様に真田幸村の銅像が建てられています。
三光神社の兜をかぶった勇ましい姿ではなく、安居神社の銅像は死を覚悟して座っている状態の幸村像です。
幸村像の隣には、大きな「真田幸村戦死跡之碑」が建てられています。
心眼寺【真田幸村出丸城跡】
「心眼寺」は、真田幸村と幸村の息子である大助を弔うために再建されたお寺です。
お寺の入口には「真田幸村出丸城跡」と書かれた石碑が建てられています。
場所は心眼寺坂を上ったところにあります。
坂の途中には興徳寺があり、安産や子宝にご利益がある高さ約10mの准提観音様が見守ってくれています。
また、道路の反対側には大阪明星学園があり、そのグラウンドが真田丸であったという説もあります。
そのため、学校の前には「真田丸顕彰碑」が建てられているので幸村ファンは一度訪れてみてはどうでしょうか?
さいごに
いかがだったでしょうか?
今回は、日本一の兵(つわもの)と呼ばれた真田幸村ゆかりの地として3つの神社とお寺を紹介させていただきました。
コメント