
大久野島の歴史と闇
こんにちは!秀吉ヤングです。
今回は、広島県にある「大久野島」の歴史と闇について皆さんにご紹介したいと思います。
現在、大久野島は野生のうさぎが沢山暮らしている「うさぎの島」として有名で、多くの観光客が可愛いうさぎ目当てで訪れます。
しかし、この大久野島には現在のうさぎの楽園からは想像できなような悲しい歴史、そして当時の闇が隠されているのです。
本記事では、戦争遺跡を中心に、大久野島の歴史、毒ガス製造の実態について詳しく解説します。
大久野島とは

まず初めに大久野島とは、大久野島は、広島県竹原市に属する瀬戸内海に浮かぶ小さな島です。
周囲は約4.3kmの小さな島なので、1時間半から2時間あれば島を1周することができます。

島内には約700羽もの野生のうさぎが生息しています。
島内のうさぎは人に慣れており、向こうから寄ってきてくれたり、販売されているエサや自分で持ってきた野菜などのエサやりをしてうさぎと触れ合うことも可能です。
そのため、現在は「うさぎの島」や「うさぎの楽園」として有名な観光スポットになっています。

休暇村として宿泊施設やレストラン、キャンプ場などもあります。
大久野島へ
大久野島について理解していただいたところで、今回は実際に大阪から大久野島へ行って来たので、写真とともに大久野島の歴史や闇について解説していきたいと思います。
大久野島へは新幹線と在来線、フェリーに乗って行くことができます。
大阪からの場合
新幹線「新大阪駅→三原駅」(1時間半)
JR呉線「三原駅→忠海」(20分)
フェリー「忠海港→大久野島」(15分)
注意点ですが、JR呉線はローカル線のため電車は1時間に1本しか来ません。
僕が到着したのは電車が行ったすぐ後だったので、三原駅周辺で時間を潰しました。

三原駅から歩いて10分くらいで「三原港」があります。
この三原港では、土日祝限定でラビットラインという船が出ていて、ここから大久野島へ行くこともできます。(12月から3月末まではなし)

ブラブラしているとすぐに電車の時間になりました。
在来線で無人駅の忠海駅についたら、徒歩で5分くらいのところにフェリー乗り場があります。

このフェリー乗り場の正面には、おしゃれなグッズショップがあります。
そこでフェリーのチケット(往復720円)を購入します。
購入後に気づいたのですが、電車と同じくこのフェリーも1時間に1,2本です。
さらに、12時の便をすぎると次は14時まで待たなければなりません。
僕が行ったのはちょうど12時過ぎだったので、ご飯を食べるなどして2時間ほど待ちました。
皆さんはちゃんと電車やフェリーの時間は確認して下さい!
船舶時刻表(大久野島⇔忠海航路時刻表)平日ダイヤ↓
https://www.qkamura.or.jp/ohkuno/access/images/time.pdf
フェリーが到着したので乗り込み、大久野島へ出発です。

大久野島到着


フェリーで15分を程すると大久野島に到着しました。
到着後は、多くの人が休暇村行きのシャトルバスに乗ったりするために左方向に向かいます。
ここでオススメポイントなのですが、ほとんど人が左方向に行くため、あえて右方向に行くとあまり人に合わないため写真を撮ったりしやすいです。
また、右方向に行くと歩いて数分で、この大久野島の一番の見どころである「発電所後跡」に着きます。

海沿いの左方向へ歩いていくとまずは、当時使用されていた桟橋を見ることができます。
そのまま進むと、トンネルが現れます。


このトンネルには「MAG2」と書かれていて、戦後アメリカ軍によって弾薬庫として使用されていたためです。MAGとはマガジン(弾薬)の意味らしいです。
発電所跡
トンネルを抜けると大きな建物があります。


この建物は、この島で毒ガスを製造する際に、電力を供給していた「発電所」です。
当時は、ディーゼル発電機が8基も設置されていました。
さらに、動員された女学生たちが風船爆弾の補修作業も行っていたそうです。
内部はこの様になっていますが、現在は建物の老朽化のため立入禁止になっています。






戦時中は敵の飛行機から見つからないように壁は迷彩に塗られ、周りには木をたくさん植えていました。しかし、毒ガスの影響で植えた木などがどんどん枯れていったそうです。
火薬庫跡

次に向かったのは「火薬庫跡」です。
ここは砲台の砲弾を保管したり、火薬を保管するための火薬庫です。


しかし今は大雨の影響で土砂崩れが起きて建物はほとんど崩壊しています。
その後歩いていると第一村人ならぬ第一うさちゃんを発見!
お昼ごはんを食べている姿を写真を撮らせてもらいます。

すると、こっちに寄ってきてくれました。

可愛いすぎる!
今回は戦争遺跡や廃墟を探索する目的で来ましたが、うさぎ目当てに変更しようかと思いました。
元々このうさぎ達は、戦時中に毒ガスの影響を調べるために飼われていた実験用のうさぎでした。
戦後に一部のうさぎが逃げ出して、大量繁殖して現在の「うさぎの楽園」となったと言われています。
北部砲台跡①
渋々うさぎには別れを告げて次は「北部砲台跡」です。



北部砲台は、1902年に芸予要塞が設置され、ここには8個も大砲が設置されていました。
しかし、日露戦争が始まってからは、戦場の最前線に大砲が必要となり、ここにあった大砲は全て前線へ移動させられました。
これは砲側庫の内部です。


上に通気口が空いています。
北部砲台跡②



この場所にはかつて「24cm加農(カノン)砲の砲台」がありました。

砲側庫は水没しています。


兵舎の跡

先程と同じ場所の奥には、兵舎の跡が残っています。

長浦毒ガス貯蔵庫跡

しばらく道沿いに歩くと出てくるのが、大久野島の中で一番大きい毒ガスの貯蔵庫である「長浦毒ガス貯蔵庫跡」です。
当時は100トン入るタンクが6基もここに設置されていました。
毒ガスの種類は「イペット」と「ルイサイト」で、どちらも皮膚をただれさせる性質の毒ガスでした。
この毒ガスの製造には、国内各地から衣食住に困らず、賃金も良いとのことで志願してきた若者が危険な作業を強いられて、化学兵器の影響で重篤な健康被害を受けました。
多くの作業員が視力を失ったり、呼吸器疾患や皮膚病に苦しんだりする事態が相次ぎました。
この貯蔵庫の内部が黒くなっているのは、戦後に毒ガスを処分するために火炎放射器で焼却したからだそうです。
毒ガス工場のトイレ跡

毒ガス工場時代のトイレの跡が残されています。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡


ここには「イペリット」と呼ばれるびらん性毒ガスの入った10トンタンクが台座の上に置かれていました。
ここ正面には、毒ガスを製造していた工場である三軒家工場群があり、その工場から管を伝って直接タンクに毒薬が送り込まれていました。
研究所跡

この施設は、毒ガス製造の研究や検査などが行われていた施設です。
毒ガス資料館

ここは毒ガス資料館では、数多くの犠牲者を出した戦時中の毒ガス工場の歴史について学べる資料館になっています。
「大久野島毒ガス資料館」
開館時間:9時00分〜16時00分
入館料:150円
※展示や内部の撮影はできません
第一次世界大戦では、各国が毒ガスを大量に使用しました。
しかし、その非人道的な性質から、戦後には国際的に禁止されることとなりました。
そのため、日本軍はバレないように秘密裏にこの島で、毒ガスの製造・開発を続けていました。
大久野島の存在は、毒ガスを秘密裏に作っていることから一般人にも隠されていました。
なので、当時の地図からは、大久野島は消されていました。
(これが「地図から消された島」と呼ばれる所以)
また、電車などで大久野島の近くを通る際は、窓から大久野島が見える区間だけ車掌が電車のカーテンを閉めていました。
工場で働く作業員たちは、ゴム製の防毒マスクや手袋、長靴などで体を完全に覆っていました。
しかし、毒ガスはわずかな隙間からも浸透し、肺炎や気管支炎といった深刻な健康被害を引き起こしました。
現在、大久野島は「うさぎ島」として観光地となっていますが、資料館などで毒ガス工場の歴史を知ることも、平和を考えるうえで重要なことかもしれません。
自動交換機室跡

ここは非常の場合に備え、電話の自動交換器が置かれていました。
敵の空襲に備えて迷彩を施した頑丈な通信壕です。
幹部用防空壕跡

幹部専用ということで、かなり頑丈に作られています。
一方で、一般の作業員達は地面に1メートルほど穴を掘った「たこつぼ」といわれる1人しか入れないものだけでした。
いつの時代でも権力者が優遇されるのは変わりありません。
帰港

これで右回りで島を1周できました。
かかった時間は徒歩で2時間くらいでした。
レンタルサイクルなどもあるそうなので自転車を使えば1時間くらいで回れるのかもしれません。
帰りのフェリーも時間が決められているので時刻表のチェックを忘れないようにして下さい。
まとめ
大久野島は、現在は「うさぎの島」として親しまれていますが、過去に何があったのかを忘れてはなりません。
毒ガスによって苦しんだ人々や戦争の犠牲となった人々の声に耳を傾け、平和の大切さを次世代に伝えていくことが重要だと思います。
現在はうさぎ好きの方だけでなく、歴史を学びたい真面目な方から、廃墟好きまで数多くの人が楽しめる島になっている大久野島、ぜひみなさんも1度訪れてみてはいかがでしょうか?
おまけのうさぎ





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